第3章 私の「年の差」結婚[1]

@筆者:五味洋治プロフィール [ 2011年 7月 11日 ]

天安門広場で

私のこともできるかぎり率直に紹介させていただこう。私の場合は、妻と中国で知り合った。日本企業の中国進出にともない、こういうケースも増えてくるに違いないからだ。
新聞社に勤務している私は、2002年、上司から思いがけなく中国での仕事を打診された。
中国になじみはなかったが、迷った末に行くことにした。北京空港に降り立ったのは翌年の1月半ば、春節と呼ばれる旧正月の真っ最中で、街は死んだように静かだった。当時は、春節を祝う爆竹が「危険だから」と禁止されていた。
慣れない北京での一人暮らしは楽ではなかった。言葉が分からない、話しても通じない。もともと中国には関心があったが、中国人は外国人にそう人なつっこく接してこない。客商売であるタクシーの運転手さえ、口が重い。これは驚きだった。
私は韓国に計4年暮らした経験がある。ちょっと感情に走りやすいものの、情の厚い韓国人が懐かしくてたまらなかった。
そんな中、友人とある飲食店に行って、レジのアルバイトをしていた彼女と知り合った。
大学を卒業したばかりで、昼は旅行社、夜は飲食店でバイトと2つ仕事をもっていた。北京で部屋を借りて生活するのは楽ではない。1人で2つ、3つ仕事を掛け持ちするのは、ごく普通のことだ。
彼女と何回か雑談しているうちに時々、中国語を教えてもらうことになった。喫茶店で会って、簡単な会話をした。私はしらずしらずに自分や仕事のことを話していた。下手な中国語を何時間もじっと聞いてくれ、「辛苦了(ご苦労様)」と慰めてくれる。
この頃私は、彼女の話すゆっくりとした中国語が半分くらいしか分からなかった。それでも心が通じた気がした。世界でたった1人の私の理解者、大げさではなくそう思った。それはたまたま中国人の女性だった。
季節は冬だった。私と彼女は二人で喫茶店を出て、気分転換に天安門広場の周りを何回も歩いた。そしてまた話をした。天安門広場は、北京の中心だ。無表情で立っている武装警察官がたくさんいる。たどたどしい中国語を話す中年男と、若い女性の組み合わせはさぞ奇異に映っていただろう。

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携帯メール

彼女は飲食店の寄宿舎に住んでいた。4人1部屋だという。仕事が終わってからいつも私に携帯メールをくれた。夜12時になることもあり、1時を回ることもあった。
もちろん漢字だけ。まるで昔、高校時代に読んだ唐詩のような趣がある。言葉では聞き取れなくても、漢字になればだいたい意味は分かるものだ。
当時の中国の携帯は、メールをパソコンに保存したりすることができなかった。何通かたまってくると警告がでるので削除するしかなかった。彼女のメールも削除してしまったのだが、たとえばこんな内容だった。
先生、?好??現在做什??今天?心??最近天気、越来越冷了、多穿些衣服、別感冒了。好好吃飯、工作不要太辛苦了。祝開心的毎一天。(いかがお過ごしですか。気分はいいですか。最近寒いので、服をしっかり着て、きちんと食事を取ってください。あまり仕事ばかりしないように。楽しい毎日を)

?好??今天我休息、去百貨店買了一件?衫、不知道合?不合?。等我?見面的時候??。好好吃?、注意安全。(元気ですか。今日は私は休みです。百貨店に行ってシャツを買いました。身体に合うか分かりませんが、会ったときに渡したいと思います。しっかり食事をして、いろいろ気をつけてください)

バイト代で、シャツを買ってくれたようだった。授業料のお返しということだったようだ。
携帯メールは、1日にそれこそ10通ほど届くこともあった。漢字だけだったが、それまでの結婚でぼろぼろになって、すっかり疑り深くなっていた私の心を溶かす、温かい雨粒のような効果を発揮した。携帯電話でメールを打つには、中国語の発音記号であるピンインを使う。私はピンインが分からず、1字1字辞書を引かなければいけない。返事は10回に1回、それも「謝謝」など簡単なもので、彼女はずいぶん落胆したそうである。

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出会いの場

日本人の駐在員と中国人女性の出会いの場は、限られる。最もポピュラーなのがカラオケスナックだろう。北京や上海といった大都市には100以上あると言われている。
だいたいがビルの1室で、カウンターと、いくつかテーブルのある小さな店だ。中国は法律上、女性が客の横に座ってはいけないことになっているが、普通は女の子が脇に座ってお酒をついでくれる。
オーナーはだいたい日本に留学した経験があり、日本語がうまい。他の女の子たちは10代から20代前半。田舎から出てきたばかりの子で、「天安門広場も見たことがない」と話す。ある時複数の子の手を見せてもらった。傷跡がいくつか見つかった。私も農家の育ちなので分かる。この傷は農作業の時に付いたものだ。朝陽が昇るのと同時に働き出し、暗くなるまで働く。そんな生活をしていたに違いない。
そんな過酷な環境にいただけに、彼女たちも当然のように、1日に複数の仕事をこなす。
自分の時間がないし、もちろん男性とつきあった経験もない。こちらの年齢が高くても、少しお金があって、時間的にも余裕のある知り合い、カラオケでも歌っていると気心もしれてくるものだ。外で食事する機会もあるかもしれない。
店の方も、夕食を一緒にして客を店に連れてくる場合は、出勤時間が遅くなってもよいルールになっている。
そうやって親しくなってゴールインした日中の男女を何人も知っている。

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大胆な告白

知り合ってまもなくして、私は帰国することになった。3年間の任期が終わったのだ。帰国の準備を進めている私に対して、彼女は夜道で突然こういった。「あなたのことを愛している。一緒に日本に行きたい」ーうれしいというより、何か勘違いしているのではないかと思った。確かに「我愛?(ウォ・アイ・ニ)」と聞こえたが、中国語では、これは単なる親しみの表現なのかもしれない。
まさか年齢が遙かに離れた私に、愛していると言うわけがない。なんだか笑いがこみ上げてきて、怒りに変わった。
「そんなに若いのに、人に対して簡単に愛しているなんていうものじゃない」「俺を騙そうとしているだろう」。私も言い方が直接的になっていた。
しかし彼女は真剣だった。
「あなたとイッショニにいたいね」とたどたどしい日本語で言う。ここまではっきり自分の気持ちを言う女性に会ったことがなかった。まるで別の世界から来たエイリアンのようにまぶしかった。
私の視線はなぜか空に行った。丸く、白い月が出ていた。今日はやけに大きく見える。「そう神経質になりなさんな。聞いてあげなよ」とでも言いたげな優しい光を放っていた。
ここまで真剣に言ってくれるなら、応えたいと考えた。その感情は愛情と言えるものだったかもしれない。
私はまず帰国した後、彼女を日本に呼び寄せようと計画を立てた。彼女の友人は「あの人は絶対にあんたを忘れるよ」「日本人は、中国人の女を遊び相手と考えているから」と話していたそうである。
私が相談した周囲の友人も、「歳も違い、国籍も違う。大丈夫?」と真剣に心配してくれた。
結局わたしたちは結婚した。いろいろな事情があって結婚式は挙げていない。日本では結婚写真を撮ったが、心の中ではまだひっかかっている。

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年齢差

もちろん年齢差は心配のタネだ。
知り合ってからしばらくして、彼女に干支を聞いたことがある。年齢を聞くのは失礼だから遠回しに聞いたのだ。「イヌ年」と答えた。中国と日本では、干支はほぼ同じだ。私もイヌ年だから十二年離れていると勘違いした。
しかし、話を聞くと最近北京の大学を卒業したばかりだという。それなら年はもっと離れているはずだ。よく聞くと、二回り、つまり24歳離れていた。
愕然となった。「お父さんはいくつなの」「55歳」ーってことは私と10歳も離れていないじゃないか。そういえば、北京にある日本人向けのスナックで、親子ほど年の離れた日本人と中国人の夫婦に何回か出会った。
夫の方はたいてい会社の社長か、レストランのオーナーである。お金ならいくらでもあるように見えた。女性の従業員にチップをはずみ、テレサ・テンの歌を中国語で歌う。だいたいパターンは決まっていた。正直、私はややうさんくさく感じていたものだ。
私が付き合おうと考え出していた女性が、こんなに若いとは想像も付かなかった。それだけに一瞬腰が引けた。しかし、もう失うものはない気がした。思い切って彼女に、これからの人生をかけてみたいと思った。
中国語には「相見恨晩」という言葉がある。もっとはやく会いたかったね。知り合うのが遅すぎた、という意味だ。でも人間の出会いなんてそんなものかもしれない。ただ、それだからこそ、知り合ったことを大切にしたいと思うのだ。
一方中国では、生活力がついている40代の男性を高く評価するところもある。
中国にはこんなことわざがある。「男人40一枝花、女人40豆腐渣」(40男は花盛りだが、女は豆腐がらだ)
四〇代の男には華があるが、女は使い道がないーということらしい。ほめすぎかもしれないが、四〇代は、国際結婚適齢期だと勝手に決めてしまおう。

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