第2章 花嫁はどうして来るのか[5]
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第2章 花嫁はどうして来るのか[5]
花嫁を世話したい
沢内村(現・西和賀町)で長い間農協の組合長をしていた佐々木覓(もとむ)さんも当時を話してくれた。
もう80歳だが、話し方はしっかりしている。
白内障にかかり手術したばかり。「私は百姓だから、死ぬまで百姓をやります」と丁寧な口調で話した。
そもそも国際結婚が始まったのは、方正県側が、視察に訪れた沢内村の代表団に向かって「何か困ったことはありませんか」と聞いてきたことからだった。代表団の一員だった佐々木さんは、その時のことをよく覚えている。
沢内村の方が「若い男性の結婚相手が見つからない」と答えたら、方正県の市政府の人が「それなら花嫁を世話したい」と申し出てきた。最初は「官製」だったわけだ。
「言葉も通じないし、最初は物珍しさがあった。現地でお見合いもした。そして日本に来てもらったんだね」「みんなほれ、向こうから来た子は頭のいい子だったからね。でも恵まれない子もいたね」
佐々木さんはお見合いや結婚式にも立ち会ったが、今は交流が途絶えてしまっている。
私たちも歳を取りまして、なかなかむこうに行けませんし、向こうの人たちもどんどん変わってしまっています」と残念がった。
もともと農業から始まった付き合いだったが、中国側でも農業をやめてしまった人も多く、交流は次第に遠ざかった。
年間2000人が日本に
コメ作りが取り持った旧沢内村との交流は、「農村から出たい」という中国女性のパワーと相乗効果を生んで、思わぬ速度で、爆発的に日本全国に広がっていく。方正県やその周辺の女性が日本に嫁いでくるようになったのだ。
さらに黒竜江省ハルピンの結婚登録所に来る日本人男性の数から推定し、「方正県やその周辺の女性が、年間に1000ー2000人前後、日本に嫁いでいる」(ある仲介業者)ともみられている。
佐々木さんもそれを知っていた。「そうでしょう。秋田県にも岩手県にも来ています。沢内村がきっかけになりました」
最近では、日本の農村だけではなく直接都会に行く人もいる。中には日本語をしっかり学び、岩手大学の看護婦になった人もいる。
「東京にもいっぱいいるでしょう、正確なところは分かりませんが。失踪してしまった人もいるが、それは、予想していたより厳しい日本の農村での労働や、農村特有の嫁姑関係があったんだと思います」
沢内を離れた女性たちも「沢内にくる機会があれば、私のところに来て里帰りみたいにして時間を過ごしていきます」(佐々木さん)そうだ。
リッチへの近道
方正県は、東北地方の都市としては異例に親日的なところだ。中国東北部の多くの都市では、いまだに公安(警察)が外国人を監視対象としている。方正県のような地域があること自体驚きだ。東京には日本と方正県の交流を進める「方正友好交流会」もある。交流会事務局長の大類善啓さんは、「日本人はもっと方正県のことを知るべきだ」と強調する。
方正には日本語学校が10校ほどある。そこで学ぶ女性たちは、結婚相手が見つかったか、もしくは日本に行くことを夢見る人たちだ。日本語学校が、花嫁修業の場となっている。
ただ、実際は、方正県からたくさんの女性が結婚の名の下に、日本に出嫁ぎに来ていることをどう理解すればいいのだろうか。日本人男性ともトラブルが多発している。
彼女たちは何を考えているのだろうか。その心理は何なのか、カネを稼ぎたい、幸せになりたい、日本にあこがれている、中国にいたくない。
現在東京に住んでいて、日本人と結婚後出産、日本での永住権を手に入れた。その後離婚し、現在は中国人と2回目の結婚をした方正県出身の文静さん(29)は、私にこう話した。
中国がいやで
父は銀行に勤め、母は教師でした。暮らしには困っていなかった。地元には、中国残留孤児が多かった。だから日本人や、日本の文化には小さいころからなじんでいた。方正県には、どこの家庭にも、日本に住んだことがあったり、親戚が日本にいるなど、日本と何らかの関係を持っていると言ってもいいね。
私の姉も日本に嫁いでおり、帰国するたびに日本の家庭用品や服を持ってプレゼントしてくれた。
その中に透明な膜があった。サランラップと言うらしい。今じゃ珍しくもないけれど、当時は驚いた。
これに包めばご飯が何日も保存できて、固くならない。服もどこか垢抜けている。憧れが膨らんだ。日本は清潔で発展していると感じた。
大学2年生の時、中国での生活がいやでたまらなくなった。目標が持てなかった。大学を卒業したところで、工場とか、つまらない仕事につくのは目に見えていた。姉が身元保証人になって日本への留学を申請したが、拒否された。とても落胆したが、もう1回申請し、OKとなった。
2004年6月、10万元の借金して大阪に留学した。朝から晩まで打工(アルバイト)。疲れ切ったが、日本での1カ月の収入は、方正県では1年の給料になる。稼いだお金はほとんど親に送った。親は方正に立派な家を建てて満足していた。留学ビザが切れそうになって、たまたま知り合いになった中国残留孤児の孫の日本人国籍の男性と結婚した。日本に来た本当の目的は、金を稼ぐことだ。
夫とはいずれ別れたいと思ったが、別れた後、身分が不安定になるのが怖かった。身近な友人に聞いたら「結婚だけじゃ、身分は確実じゃない。子供がいれば定住者という資格が取れ、日本に居られる」と教えられ、勧められるままに子供を産んだ。産んでからすぐに中国の実家に預けた。
夫とはしばらくして別れた。子供は一歳になったばかり。最初の結婚には感情はなかった。一種の「踏み台」だった。その後、別の中国人男性と一緒になった。最近、ビルの一室を借りてスナックを出した。同じ田舎の子を使っている。そこそこにうまく行っているよ。とにかく日本では、女でもお金が稼げる。中国ではいくら頑張ってもこうはいかないね。大学の同級生は、今も中国で「水深火熱」(生活が困っている様子)だ。私は日本に来て、「百万富翁」(大金持ち)になったよ。